どんな状況にあっても逃げないこと

どんな状況にあっても逃げないこと。逃げなければ状況は追ってこない。逃げると状況は追いかけてくる。逃げずに、誠実に取り組もう。もうだめだ、これ以上どうしようもない、という状況になってからが勝負だ。本当の戦いになる。実はもうだめだ、という状況になってからの方が力が出せるのだ。絶対に何とかしなくてはならないという状況になった方が智恵も出やすくなる。アドレナリンもたくさんでるのだろう。腹も据わる。

人生は長いから。

人生は長い。長いから、すぐに結果を求める必要はない。すぐに結果を求めるよりも、今を、今ここにある課題に、誠実に、全力でやっていくようにする。この今の積み重ねで、たった一粒の水の滴が、土を潤して、小川になり、やがては川になっていくのだ。そして、気付くと10年、20年と経っていく。たとえ、今までが後悔の連続だったとしても、自分が後悔する選択の連続だったことを改めて、今を全力でやりきる、誠実な選択を積み重ねるように変えていく。全力と誠実を積み重ねるように生きていくと、やがては、全力と誠実が習慣になる。習慣の力は人を変えることができるのだ。5年で心の中が入れ替わっていく。いつのまにか後悔と不安が積み上がっていく人生から、不安や心の中の垢が洗い流されて、誠実で、目の前にあることを全力でやっていくことができるようになる。人生は長い。長いのだから、今が状況が悪くとも、何も嘆く必要はない。5年、10年で逆転できるのだ。

人生に躓いていて仕事が覚えられないとき

人生に躓いていると仕事が覚えられなくなる。人生に躓いていると、論理的な思考ができないし、感情の出方もおかしくなる。だめだ、苦しい、どうせ、不遇だ、運がない、妬む、あたる、破壊的な感情が心の中心になっていく。人間は言葉によって思考して、人生を自己の選択で生きていく。躓いていると、躓く選択をする。また、躓く選択をし続ける。うまくいかなくなるように思考しているだけのことなのだ。どうせできない、という思考をできるのだ、に変えればいい、苦しい、を楽しいに変えればいい、どうせ、をきっと、に変えればいい、運がない、をついてるな、に変えればいい。感情は訓練と日々の環境で変えていくことができるのだ。自分の心は自分でコントロールできるのだ。

捨てる

今までやってきてうまくやっていたこと。テキパキとさばけること。熟練してきたこと。そういう上達して、自分の誇りになっている仕事でも、捨てなければならないときが、10年に一辺くらいはある。ノウハウを人に伝えて、ある程度学んでもらえたならば、いつかは任せなくてはならない。たとえ、託す人がまだまだ十分とは言えない状態だったとしても、自分は自分のやり慣れた仕事を捨てて、違うステージに移らなくてはならない。もう、十分にわかったことは人に伝えて新たなステップにうつる。執着は手放すと新しいものが手にはいるのだ。人間の手は二本しかない。精々手に持っても二つしか持てないのだから。

人を引っ張るには

人を引っ張るには、まず引っ張ろうなどと思わないことだ。自分が懸命に何かやっていればいい。自分が、心の中にはっきりとした目標をもち、その実現のために必要なことをイメージできた上で、適切で、真摯な努力をすれば、自然と人は引っ張られる。モチベーションの高い人についていくのが人は好きなのだ。引っ張られるその人も自分が高められるのだ。逆に、みんなを引っ張ろうと思うと、しらけてしまう。やらされる気持ちになるからだ。
要は自分が太陽になればその暖かさで人は自然と集まるし、引っ張られるものなのだ。

達成する時の気持ち

達成する時の気持ちはいつも同じだ。やれる、と根拠もなく思えるのだ。ああなったら、とか、こうなったらどうしようとか、思わなくなる。マイナス面が出てきても、こうやればいい、ああやればいい、と智恵が出て、その知恵で乗り越えていくことができるようになる。そうすると、何だかんだとできないことができてしまうようになる。エネルギーが絶えずバンバンと出て、諦めないオーラが出る。そうなると無敵なんだ。矢が来ても、鉄砲が来ても、当たらない。はねのけてしまう。これが達成する時の気持ちだ。

でも、基盤はしっかりできたことは間違いない。

ここ二、三年僕は楽な方を選んだ。だが、基盤はしっかりできたことは間違いない。人が育ったことが大きい。人が育ったのだから、基盤ができてきたのだから、お前はもう、辛い方を選ぶ時が来たんだよ、ということなんだろう。腹が決まると、気持ちがスッキリする。同じ所をぐるぐると回るだけなのが、パーンと壁が弾けて、前に進める。これで、視界が開けた。これで、いい。

裁判

辛い方と楽な方なら辛い方を選んだ方が最後にはうまくいく。だけれども、ここ二、三年の僕は楽な方を選んだ。楽な方を選んだと認めるのに二年かかった。選んだ時は気が付かなかったけれども。楽な方を選ぶと、たとえどんなに業績がよくても、顧客の満足度が高くても、世間様の、一般的な評価には関係なく、自己の心の奥底にある魂のようなものが自分で自分を強制的に裁くのだ。これではいけないよ、これでは自分をあまやかしているよ、と。始めは言語化できない。いったい何が悪いのか、何がいけないのかわからない。漠然とした不安だったり、どうでといいような欲望だったりする。やがて、事実が強制的に次々に変化を促すようになる。自分が楽をしてきたことを認め、辛い方を選ぶまで延々と様々なところで地雷を踏み続ける。これは神から与えられた裁判なのだ。そして、その裁判は自分が考え方を改めるまで、自分が気が付くまで続く。強制的に。そして、ようやく目が覚めて、気付く。認めてしまえば気持ちがいいものだ。これでまた、新しいスタートを切ることができる。

ここ二三年、僕は楽な方を選んでいたんだな。

辛い方と楽な方なら辛い方を選んだ方がいい。最終的には、辛い方を選んだ方がいろいろあっても、最終的にはうまくいく。だけれども、ここ二、三年の僕は、楽な方を選んでいたんだな。辛い方と楽な方なら辛い方を選んだ方が最後にはうまくいくと、十分わかっていたつもりだったけれど、流されるんだな。僕は、ここ二。三年楽な方を選んだんだ。それが今、はっきりとわかった。明確にわかった。クリアーにわかった。気が付くというのはとても気持ちがいい。たとえどんなに業績がよくても、顧客の評価がよくても、自分の心の奥底がこれではいけないよ、これでは未来を食ってしまっているよ、ってツンツン、ツンツンと刺してくる。このツンツン、ツンツン、という心の警告が僕にはとても不快だった。ただ、そのツンツンが僕が楽な方を選んだからだということに気が付くのに二、三年かかってしまったということだ。よかった。今、気が付けて。よかった。本当によかった。

辛い方と楽な方なら、辛い方を選ぶ

辛い方と楽な方なら、辛い方を選ぶ。迷っていると、辛い方がいろいろ大変なことが多いし、逆に楽な方がいいように見えてしまうから、楽な方へひかれていく。自然と楽な方を選ぶように進んでいく。だけれども、楽な方を選ぶとうまくいかないことが多い。なぜだかはわからないけれど。行く手が困難ばかりで二階から針の穴を通すような可能性しかないのにもかかわらず、辛い方を選ぶ方が、最終的にはうまくいく。不思議なことだけれど、辛い方を選んだ方が最後にはうまくいくのだ。