仕事は生きていくための手段に過ぎない。

僕は仕事が好きだと思う。やりはじめると、止まらなくなる。どこまでも、どこまでも、執着して、結果が出るまでやってしまう。それはそれは自分でも徹底していると思う。だが、妻は仕事は生きていくための手段に過ぎないから、そこまでやる必要はない、と言う。ずっと、意味がわからなかった。仕事が止められなかった。最近、やっとわかった。仕事に手を抜くというのではなく。うまく言えないのだが、わかったのだ。

仕事は手段である。

仕事は大切だ。人間として生きている以上は仕事をやるべきだ。しかし、仕事は生きていくための手段であることを意識しておく必要がある。自分が生きるため、家族を養うため、社会に役立つために、働くのは尊いことだ。だが、働くこと、家族を養うこと、お金を稼ぐこと、そのものが目的になると、それは
違うのだ。手段は手段だ。いきる目的ではないのだ。生きる目的は他にある。仕事、地位、お金が目的になると、苦しくなる。最近、そんなことがわかってきた。

化ける

今までていねいに、ていねいに育ててきた。しかし、やっても、やっても、なかなか芽が出なかった。それでも、望みを捨てずにいいところを見つけては褒め、励まし、諦めずにやってきた。たまに、歩みの遅さに不安になるときもあるが。もうだめかな、というときに突然化ける。芽が出るのだ。この仕事をやっていてよかったと思うのはこんなときだ。

またひとつ、終わった

またひとつ、終わった。長いことかかった。どうすることもできず、放っておくしかないという時期もあったが。ひとつ、問題が解決すると、その問題がどんなに大きく思えていたとしても、終わるともう何てことはない、当たり前に解決した感じになる。そして、心に空間ができて、また次の問題へと向かう。まあ、終わりがないんだな。

成功したってさ、苦しいだけなら、つまらないよ。

成功したってさ、苦しいだけなら、つまらないよ。
成功なんてね、したら最後次々と難題が課されるようになる。
その課題に応えることに悩み、苦しみ、耐えきれなくなるときがある。
もう、えんえんと続くからね。疲れはてていてもやってくるからね。
でも、成功したからって、誰も誉めてはくれない。むしろ、妬まれる。
それでもね、この重圧に負けたらいけないんだな。この次々とやってくる無理難題に押し潰されたらいけないんだな。
自分に使命が課されたんだから、わざわざ神がお与えくださったのだから、有り難く頂戴するのね。
もう、何が来たっていいのよ。何だっていい。たとえ、どんなに疲れはてていても、艱難辛苦はやって来るのよ。
これはまた、神様から宿題が出されたのだな、神が俺に期待してくれているのだな、とね、思ってね、また、頑張るのだよ。
さあ、何が来ても大丈夫だよ。
また、歩き出そう。

苦しみを楽しみに変えてしまうのだ。

人生は苦しみだ。苦しみの連続だ。しかし、その苦しみを楽しみに変えてしまうのだ。苦しい!をチャンスと考えるのだ。もう駄目だ!をギリギリで持ちこたえていて、えらい!と考えるのだ。解釈を変えるのだ。見方を変えると、苦しみも楽しみになる。仕事は楽しい、とか、受験勉強が楽しい、というのはそういう意味なのだ。ディズニーランドで楽しいのとは全く異なるものなのだ。勘違いしないようにしよう。

生きている

生きている、それだけで幸福なのだ。
人間に生まれた、それだけで幸福なのだ。
屋根のある家で過ごす、それだけで幸福なのだ。
あたたかい布団で寝られる、それだけで幸福なのだ。
毎日食べるものがある、それだけで幸福なのだ。
家族がいる、それだけで幸福なのだ。
家族が元気でいる、それだけで幸福なのだ。
仕事がある、それだけで幸福なのだ。
喜んでくれるお客さんがいる、それだけで幸福なのだ。
共に働く仲間がいる、それだけで幸福なのだ。
一日の終わりにお酒が飲める、それだけで幸福なのだ。
俺は何て幸福なんだろう。

清く、正しく、強く

いつも、心を[清く、正しく、強く]持つこと。世の中は悲惨な運命に溢れている。そして、その悲惨な運命は弱い、不正な人間を絶えず、狙っている。だからこそ、心を[清く、正しく、強く]保つのだ。すると、勢いが出てきて、明るく楽しく生きられる。悲惨を吹き飛ばせるようになる。

幸運は自分で呼び寄せる

幸運は自分で呼び寄せる。人に頼ったり、神にすがっても、訪れない。今、自分にやれることを、精一杯やっていく。この一日一日の、一瞬一瞬の積み重ねが、幸運を引き寄せるのだ。今の努力を忘れてはいけない。自分の力で、やり抜くと、ふっと訪れる。それが幸運だ。