あれも自分にはないな、とか、これも自分にはないな、とか、自分に無いものを見つめていると満たされない、不幸な気持ちになる。今あるものに、そんなものはあって当たり前のものだ、という気持ちでいたら何も嬉しくないし、きっと日常生活が殺伐とした潤いのないものになるだろう。今あるものに心からありがたいなという気持ちを持つ。それだけで心が平安になる。今日も壁のある部屋で眠れることだって当たり前ではない。ありかたいことなのだ。日に干した布団でぬくぬくと眠れることだって当たり前ではない。ありがたいことなのだ。今日も温かいご飯が食べられることだって当たり前ではない。ありがたいことなのだ。
無常ということ
人生は無常だ。どんどん状況は変わっていく。片時も同じ状況なり、シチュエーションということはない。今年、合格者が多くても、翌年気持ちに奢りがあったり、気の緩みがあったり、必要な手を打たなかったりすれば、すぐに転落する。これでいいな、と思っていても、時が経てば顧客の要望も変わるし、社会の状況も変わるから、これでいいということも全くない。だから、生きている限り変化し続けていかなくてはならない。それがこの世に生まれた者の逃れることのできない宿命なのだ。これが無常ということだ。だが、人生は無常なものだという前提に立って生きていれば、変わっていくことも当たり前のことだし、努力が永遠に必要なことも当然だ。当然なのだからたんたんとやり続ければいい。そう思っていれば楽に生きられる。
人様のお役に立つことができれば生きていける
仕事がないという。就職できないという。安定している仕事がいいという。働くということは、本来はたにいる人を楽にしてあげることだ。つまり、人様のお役に立つことが働くということなのだ。あなたはどうやって人様のお役に立とうと思っていますか?就職することでどのようにはたにいる人を楽にしてあげようと思っていますか?安定した仕事につくことで顧客の要望にしっかりとお応えしようという意志がありますか?仕事はないのではないのです。就職先もないのではないのです。人様のお役に立つことができればちゃんと社会から必要とされるのです。生きていけるのです。社会貢献がしたいなんて高尚な言い方をしなくていいです。人様のお役に立つ。顧客に心から喜んでもらう。はたの人を楽にしてあげる。それだけのことなんです。
自分の人生に責任を負えないのに結婚したらいけない。
自分の人生に責任を負えるようになろう。自分の人生に責任を負えないのに人の人生を引き受けるなんてことはできない。自分の人生に責任を負える者同志が結婚して何とかやっていける。そんなものだ。だから、どちらかが自分の人生に責任を負えない、または、両方共に自分の人生に責任を負えない場合は結婚しても一方的に愛情を貪るか、互いにエネルギーを奪い合い、傷つけあうことになってしまう。どんな困難も苦しみも悲しみも、お互いに分かち合って乗り越えていこうと思えば、まず自分の人生に責任を負えるようになることだ。
惚れた女ができたら一緒になるといい
惚れた女ができたら一緒になるといい。結婚は足枷だ。重い重い足枷だ。子供がいれば更なる足枷になる。結婚は重い重い荷を背負うことなのだ。もしも、結婚してなかったら自分のためにどれだけ好きなことができたろうか。お金がどれだけ残ったろうか。でも、違うんだ。実は、女、子供という足枷があるから頭を使い、知恵をだし、勇気をもって前に進めたのだ。きっと妻も同じだろう。妻や子供たちに使った時間やお金をベンツにつぎ込んでいたら、一体、何台ベンツが買えただろう。だが、それで嬉しいだろうか。本当に楽しかっただろうか。そんなことよりも、妻がかわいらしくいてくれる、子供が喜んでくれる、成長して、一人前になって、世の中の役に立ってくれる。物で残るより、人の心に残る方がはるかに楽しく、有意義なのだ。これが結婚だ。もしも、あなたに惚れた女ができたら一緒になるといい。人は足枷があった方がいい生き方ができる。もしも、そんな足枷を背負いたいと思わないなら、あなたはその女に惚れてなんかいないんじゃないかな。足枷を背負ってでも一緒にいたい、と思うことが惚れたということなんじゃないかな。
心を整える
決して無理を続けてはいけない。あとで精神の崩壊を生むからだ。もちろん、無理をしなければならない時がどんな時もある。勝負時は精一杯走り抜けなくてはいけない。ここぞというときは無理をしなければならない。だが、決して無理を続けてはいけない。無理をしたあとは、一段落つけば自然と体も心も休息を求める。そのときは休息をとればいい。誰がなんと言ってもちゃんと休む。そういうバランスが必要なんだ。
回復
人生をろうそくの火にたとえるならば、仕事のピークの時はもう、そのろうそくをガリガリと削りながら走り抜いていく感覚で生きている。傷つき、疲れ果てる中で、もうギリギリのところで踏みとどまりながら、顧客を励まし、勇気づけ、奮い立たせる。そんな感じなのだ。しかし、ほんの少しでも日常生活に戻るだけで心も体も回復していく。苦しいことは実は一瞬なんだ。そのときは長く感じても、本当はほんの短い間なのだ。夜は冷え込むが日差しはもう春だ。はやく桜の花が咲かないかな。そして、桜の花が嵐のように舞い散る季節にならないかな。
プロになるために。二年目
二年目は気持ちが緩む。仕事がわかってくる。一年目の学んだことがだんだんルーティンワークになってくる。だから、仕事は楽にできるようになる。でも、昨年の疲れが出てきたり、なんとかやれそうだなという安心感から迫力のあるダイナミックなところまでは行かない。駄目なわけでもないし、いいわけでもない。そんな感じで二年目は過ぎていく。でも、二年目の終わりになると来年は飛躍できるな、ということがわかってくる。ひとつのキャリアとして三年で完成するからだ。
障害だらけでも
何かやろうと思ったら、障害だらけだ。プラスの要因なんてほとんどない。だから、やめておく、では結局何もやらないということだ。何もやらないで一生を終える。出来ない理由を永遠に数え上げてね。でもね、満杯に入ってるプールの水だって、全部空にしろと言われたら、まずは手で掻き出してみるんですよ。そうするとコップで汲めばちょっとだけ効率がよくなるな、と気づく。コップで掻き出していると、今度はバケツという手がある!とわかる。始めは少しずつ少しずつ前へ進む。そして、あるときポンプってものがあるけどどうだい?ていうことになる。どこかで勢いがつくときがくる。その手順を学習した者はもうわかっているから慌てず騒がす、たんたんとやっていけるようになる。
プロになるために。一年間は勉強だよ。
プロになるために。一年間は勉強するだけだ。一年間はひたすら新しいことを学ばなければならない。この仕事ができるようになったな、と思ったら次の仕事、またその仕事ができるようになったなと思ったら、また次の仕事。次次と新しいことを学ばなければならない。人間は新しいことを学ぶときはものすごいエネルギーが必要だから疲れやすい。また、新しいことだからすぐにはできるようにならないからぎこちないし、なかなか人に認めてもらえるところまでいかない。でも、一年の終わりになると自分のできるようになった仕事ともうちょっとだなという仕事がわかってくる。来年はこうしたいなと意欲が沸いてくるようになる。そうすると少し自信が出てくる。